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2018/08/13 UP
今年最も熱いスニーカーを、ジェイミー・ローレン・カイルズが斬る私の元に届いた無料の Balenciagaトリプル S スニーカーは、後で何かその中に保管するのに使いたくなるような、贅沢な段ボール箱に入っていた。その剥き出しのマッチョな入れ物は、ザラっとしたベラム仕上げで、頑丈な蓋がついていた。取り出す際は、無駄に奥深くはまった蓋を引っ張り出すのに、格闘せねばならなかった。その箱は、気軽にゴミと呼べるような物にはほど遠く、むしろIKEAのフットスツールに近かった。だがこれほど豪勢な梱包も、その中に鎮座していた靴の「盛りっぷり」からしてみれば、まだ序の口だった。
Balenciagaトリプル S は、デコレーションケーキのようなスニーカーだ。さまざまな趣のスエードが高さ8cm弱の入れ子状のラバーソールに積み重ねられた、まさに砂糖菓子である。850ドルもするこのスニーカーは、パソコンとアパートそのものを除けば、私のアパートにある他の何よりも断トツでいちばん高価な物だ。この1足は、私の持っている服すべてを合わせた値段で転売することができるだろう。まあ、私が「ファッション好きな人間」ではなく、エバーレーン信者の基準で考えても、きちんとした身なりとは言えないからなのだが。いずれにせよ、どう考えても、私は今年最も熱いスニーカーを無料で受け取るには値しない人間だ。だがメディアは崩壊し、人生は不公平だ。それゆえ、最後に「喪女」が勝つこともたまにはある。
記念すべきトリプル S をデビューさせる日、私はグレーのバギージーンズと、ワインレッドのクルーネックのスウェットに合わせることにした。目指すは、私があまりに薄汚れた格好をしているために目を伏せたくなった人たちが足元を見て、私はファッション通なのだと考えるような、そんなスタイルだ。ソールが初めて外界の土に触れるときがきた。私が普段出回っているクイーンズの近所の通りに繰り出す。もっと真価のわかる人が集まる場所を求め、ブルックリンとの境のおしゃれな地区にあるブック カフェまで、20分ほど歩いた。そこでばったり出会った大学の知り合いは、一目見て、私の足元の靴に気がついた。見られているという喜びに我を忘れた私は、この靴の輝かしい特徴についてもっと詳しくコメントしようと、身をかがめて片足のスニーカーを脱いだ。グレー地に原色のパッチ、つま先のサイズ番号の「39」、そして価格。そこから話題は自然と、労働階級に転落するのではないかという不安、アート分野でのキャリア、そして昨年の年収が2万8000ドルだったのに、たまにこんなにも高価なものを無料で得られることへと移っていった。そして脱いだ靴をまた履き直す。このときの私は、靴を脱いでは一演説打つという、全く同じ一連の行動を、その週に少なくとも5回は繰り返す運命にあるとは思いもしなかった。
次に私がスニーカーを履いて出かけた行き先は、ソーホーだ。電車の窓に映った自分の足元をじっと見ているうちに、そこで中国語を話す女性ふたりがスニーカーに畏敬の念を抱いて褒めそやしていると、自分が確信していることに気づいた。公共の場でトリプル S を履くことは、マイナーなセレブになるのに、とても似ている。人から気づかれなかったらどうしようと不安になる一方で、実際に気づかれた場合はうざったいと感じる。私はキャナル駅で下車し、マーサー ストリートを歩いて、Philipp Pleinの店の外で男が数人、電子タバコを吸う横を通り過ぎた。私の気分は高揚していた。そして、これが昨年2ヶ月間痩せていた時期の高揚感と似ていることに気づいた。そこには、女性としてあるべき基本的な美の基準を満たしているという、浅はかだが大きな満足感があった。トリプル S は視覚のイリュージョンを作り出す。つまり、あまりに不器用で大きく膨らんだ形のために、その近くにあるものは何もかも、敏捷で痩せ細ったように見えるのだ。今年はノスタルジーが流行なのに、私はまたダイエットに失敗してスリップドレスが着られなかったところなので、女性として、自分の理想体型をミッキーマウスに近づけられるチャンスを得られたのは、喜ばしいことだ。とはいえ、トリプル S を履いた姿が華奢に見える一方で、靴自体はそれほど軽快な感じがしない。街で長い1日を過ごした後に家に帰ると、私の足は疲れ、むくみ、特大サイズになった気がした。体がトリプル S そのものになったかのようだった。
スニーカーの精神とは、常にその快適さにあった。19世紀半ばのズック靴の時代から、ラバー ソールの運動靴は、固くて圧迫感のある革靴の息抜きとしての靴という役割を担っていた。スニーカーは、百年近くの間そういうものだった。美しく仕上げたキャンバス地とゴム製の靴底、中流階級のカジュアルな余暇にぴったりの靴だ。だが、1970年代になると、アマチュアのジョガーたちは、それでは満足しなくなっていた。研究開発費用がつぎ込まれ、パフォーマンスが追求されるようになり、クッション性のあるレザーのアッパーに、ぼこぼことしたソール、アキレス腱の伸縮の際に負担がかからないようになった履き口のかかと部分など、 今日人々が考える近代的な「スニーカーらしさ」の原型が出来上がる。90年代には、「スニーカーらしさ」を形づくる典型的な表現法が生まれた。空気圧を調整するボール部分や、Nikeエア マックスのかかとの圧縮ガスの入った部分などだ。これらのウィジェットが、パフォーマンスやサポートを対して向上しなかったとしても、少なくとも当時は、彼らはこれら理想の価値を乗せて売っていた。
私は気分が高揚していた。そして、これが昨年2ヶ月間痩せていた時期の高揚感と似ていることに気づいた
トリプル S はこの伝統の延長にはない。この靴がどれほど重いかは、いくら言っても言い過ぎにはならないほどだ。行きつけの雑貨店で計ったところ、この靴はNike Pegasusのランニングシューズより900g以上も重い。しかも、私のDr. Martensのブーツより220g以上も重いのだ。トリプル S を履いて歩くときは、ロバート・クラム(R. Crumb)の『Keep On Truckin'』の男みたいな、のろのろとした遅い足取りを前提とせざるをえなかった。YMCAでこの靴を履いて走ったら、私の1マイル走のタイムは平均より6分も遅かった。このことが示唆しているのは、つまるところ、トリプル S はスニーカーではないということだ。靴には「スニーカーらしさ」がうず高く重ねられているが、より優れた機動性と快適さを追求して生まれた製品というスニーカーの特性については、どうでもいいようだ。これほどソールを重ねても、何も意味しない。トリプル S は、スニーカーになることなく、スニーカーという概念を表現しているのだ。アートの世界には、このような振る舞いを表す「エクフラシス」という言葉がある。これは、ある島を描いた絵画を体現した交響曲、ギリシャの壺になる詩のように、他のアートを表現するようなアートの形態を意味する。では、トリプル S は世界初のエクフラシス シューズなのだろうか。答えはノーだ。2001年、すでにジェニファー・ロペス(Jennifer Lopez)が「Jenny from the Block」でTimberlandのハイヒールを履いていたし、UGGは足裏があたる面にファーをほどこしたビーチサンダルを販売している。これらの靴は、神聖なるトリプル S ほど誰もが欲しがるものではないにしろ、少なくとも快適さにおいては、同じようなものだろうと想像している。
長時間トリプル S を履いてニューヨークをうろうろすればするほど、この靴の意図、正確には、この靴が意図しなかったことに対して怒りが湧いてきた。どこからか、『Pimp My Ride』のイグジビット(Xzibit)が、「Yo 相棒、スニーカーが好きだって聞いたぜ。だからお前のスニーカーの中にスニーカーを入れといた。これで、スニーカー中もスニーカーできるぜ」という声が聞こえた。エディターからは靴について調べずに記事を書くよう勧められていたが、結局、私はBalenciagaについて書かれたものを読んでいた。クリエイティブ・ディレクターのデムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)の下では、ジョークのネタはいつも同じのようだ。ファッション アイテムを過剰にその理想形に近づけた形にすることで、逆にその理想形に似つかないものにしてみせるという手法である。今年のパリ ファッションウィークのランウェイに、デザイナーは超モコモコのパファー ダウンを送り込んだ。Vetementsでも、ウケの良さそうなコピー満載のコラボレーションに、同じロジックを適用していた。全身つなぎのパジャマになったJuicy Coutureのトレーナースーツや、ロゴを切り刻んでめちゃくちゃにしたChampionのフーディなどだ。この方式は楽しい。だがネタにするには簡単すぎる。あらゆる優れたミームと同様に、これは自作できるものだ。黄色の食器洗い用のゴム手袋のセットだけど親指が25本あるとか、生理ナプキンだけど青いジェルでできているとか、もふもふのウサギのついたスリッパだけど、そのウサギが巨大だとか。
バレンシアガ トリプルs コピー を見ていて、美術館の中を歩いていて「わー、これだったら私もできたな」と思うのと似た感じがするとすれば、それは、実際、すでに多くのアーティストが同じことをやっているからだ。ポストモダンのツールである皮肉や自己言及、マキシマリズム、パスティーシュは、すでにアートの世界に溢れている。ウォーホルは1962年にスープ缶の作品で、観衆に日常生活の象徴を使って遊ぶというアイデアを紹介した。それ以来、『ファミリー・ガイ』が大衆向けのパスティーシュとして登場し、マッシュアップのアーティスト、ガールトーク(Girl Talk)が登場しては消え、マキシマリストの『Infinite Jest』が出版されて20年が過ぎ、 スーパーボウルのコマーシャルではスーパーボウル自体が宣伝されるようになった。このような中で、スニーカーの概念を見て見ぬふりする靴が、本当に、道端で売っているパロディTシャツよりも賢明だと言えるだろうか。私ならBalenciaga トリプル S に850ドルは払わない。だが幸運にも、私にその必要はなかった。